「厳島神社」シコロの碑(古平町)
狛犬を訪ねて古平町の「厳島神社」に来てみましたが、残念ながら不在でした。社殿は新しく、近年改築されたものと思われます。鳥居が二基あり、一基めは上部(笠木、島木、貫)が、珍しい木製で柱が鉄製でした。参道の石段前の二基目の鳥居は御影石の古いもので「弘化」の年号なんですね~しかも奉納者が「運上家」と刻されていました。正確には「下ヨイチ運上家」です。その昔、知行主である松前藩が商人(場所請負人)に運上金を支払う事を条件に、土地や漁業権を貸し与え、商人は→支配人(責任者)を駐在させ、→通辞(アイヌ民族の通訳)→帳役→惣乙名(以下アイヌ民族)→脇乙名→小使→平土人などの職制を押し付け、搾取を続けて民族の尊厳を踏みにじって来た歴史があります。
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1456年から数度起こった「コシャマインの乱」さらに212年後には「シャクシャインの乱」その後121年後に起こった「クナシリ・メナシの乱」そのほかにも小さな反乱は至る所で起こっていました。和人との交易の祭「メノコ勘定・アイヌ勘定」に代表される搾取は、商人が人権や尊厳を無視した利益至上、現代において民法を蔑ろにするブラック企業と同一のものでしょう、、、話は逸れました、、狭い境内ですが、心の広い人々が建立した「シコロの碑」があります。シコロとはアイヌ語の転訛でキハダの木の事だそうです。
明治四十五年三月十九日、古平の港は大シケで前日から停泊していた「第二出羽丸」(百八十人乗船)は風に煽られ厳島神社前の岩礁に座礁したそうです~救助のため綱(つな)を船まで渡そうとするも、大シケの海では中々届きません、見かねた若者が必死の覚悟で海に飛び込み綱を船へと届けた後、太い綱を手繰り寄せ、吊り下げた竹籠で全員救助したそうです。この時、岸側に綱を繋いだのが「シコロの木」だったそうです。村民全員での救助は美談として後世に伝わっています。この話には、さらに後日談がありまして、救助された当時二十歳の女性の御子息が、古平の皆さんの美談を後世に伝えたいとの思いから寄付を申し出、厳島神社境内に「シコロの碑」を建立したのが昭和六十年だそうです。(参考 伝えたいふるさとの100話)
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by flycoachman
| 2015-12-23 22:37
| アイヌ民族