依田勉三翁 2
明治16年春、依田勉三率いる晩成社二十七人の開拓者は温暖な南伊豆からオベリベリ(帯広)に入植します。しかし開拓は困難を極め、バッタや野鼠の食害、和人による鹿角拾いのための放火や水害、冷害など何年にもわたって続きます。屯田兵などの官費入植者とは違い、晩成社は伊豆の豪農依田家が資金を募り出資した営利団体であり、幾年過ぎても当初の計画とはかけ離れた状況が続き利益どころか、
やむなく伊豆に帰える者や逃げ出す者まででる状況でした。しかし勉三は十勝の風土に合う作物(根菜や豆類)や酪農、養豚など今の十勝の根幹となるべく産業を生み出し、後に続く入植者への標となったのです。明治の末、晩成社の事業は農場、木工場、練乳工場や缶詰工場、バター工場までありましたが、出資者への利益還元は遂に行われず大正五年、晩成社としての事業は休止し、大正十四年帯広の自宅にて七十三歳で亡くなります、、いまわの言葉は「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」
画像はアイヌ衣装を着た若き勉三と銅像のモデル当時と思われる勉三です
(画像はWEBより) 明日も依田勉三です。
「依田勉三と晩成社」 井上壽・加藤公夫
「依田勉三の生涯」松山 善三
「十勝人」道新帯広報道部編
「北の大地に生きる」小暮正夫
「十勝平野」上西春治
「凛として生きる」加藤 重
他
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by flycoachman
| 2017-11-25 23:10
| ことば