童謡「赤い靴」小樽
随分前にもこのブログで紹介したことがある小樽の「赤い靴」のブロンズ像です。「野口雨情」が書いた歌詞内容については諸説あるようですが、
悲しげなメロディには北海道開拓で筆舌に尽くしがたい苦労の末、子とも別れなければならなかった開拓農民の悲哀が漂うような、、以下はブロンズ像台座銘板からの転記です。
童謡「赤い靴」と小樽の街この歌のモデルとなった「きみ」ちゃんは、2歳の時に母「かよ」と共に静岡から函館に渡った。そこで母は鈴木志郎と出会い結婚するが、留寿都村へ入植の際、きみを外国人宣教師夫妻に預けた。
その後きみは宣教師夫妻の帰国時に重い結核のため横浜から船で米国に渡れず、東京の孤児院に託され、わずか9歳でこの世を去った。1907年に志郎は札幌の「北鳴新報」に就職し、そこで野口雨情と出会い家族ぐるみの交流を深める。
母は娘きみの話を打ち明け、それが雨情の詩となり本居長世が曲を付けて1922年童謡「赤い靴」が生まれた。札幌の後、志郎・雨情は「小樽日報社」で石川啄木と机を並べ親交をもつ。鈴木夫妻は各地を転職した後、
1940年小樽のカトリック富岡教会の門前に居を構えきみの死を知らずその幸せを信じ、熱心なキリスト信者として暮らし、今は中央墓地で眠っている。私達は、世界中の苦しみを抱えた家族の幸せを願い、小樽市民をはじめ全国からの温かい募金によって、ゆかりのある小樽の地に「赤い靴・親子の像」を建てた。天国できみちゃんが幸せに暮らす姿を夢に描いて・・・
by flycoachman
| 2022-06-24 11:05
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